ずっと心の書かもしれない【信念の倫理・第一部】クリフォード著(トム・デマルコ『熊とワルツを』より)




この本はすごかった、プロジェクトのリスク管理の本。
でもすごかった、何がすごいって付録の論文の

【信念の倫理・第一部】クリフォード著

これがすごい。何故か何度も読み返したくなる感じ……

初めて読んだ2007年当時
ついつい本を片手にPC打ち込み作業してしまった。

長いですが、皆さんも読んでみてください。
気になったら、続きの本やペーパーバック『The Ethics of Belief and Other Essays』も(今私も頑張って訳して読んでます)
http://www.infidels.org/library/historical/w_k_clifford/ethics_of_belief.html
http://www.amazon.com/Ethics-Belief-William-Kingdon-Clifford/dp/1438251769/ref=pd_sim_b_1

私の感想は……(2007年当時):
そう、常識だって何だって、その後ろにある因果や、
実際はどうなのか?って、確かめてみないと分からない。
何事もやってみないと分からない。
頭がいい人たちはどうやって動いているのかなぁ。

あ!話がそれた!

情報は飛び交い回転が速く使い古される時代になった。

雑誌やネットに書いてあることはどの程度真実だろうか?
制限がかかっている恐れのある『情報』は、誰の為の真実になっていくのだろうか?
簡単に情報は手に入る。
困ったらググればいい。
それはとても便利で、それはとても怖いことかもしれない。

先に情報を掴んだ者が勝ちだ。
IT社会では「情報の取捨選択」が出来るだけではもう遅く、効果的に素早く「情報の発信」が出来ないと勝ち上がっていけないと言われている。

隣人に対して本音を言えない社会になんてなりたくない。
でも私自身、嘘の笑顔をふりまいていないだろうか。
「いつも本心でいたい」
でも「周囲の波に乗り遅れたくない」と
本心をデコレイトしすぎていないだろうか・・・

以下、大切な引用です。
(とすれば、著作権ある程度許される!?>法律……)
(ちょっと無理あるかも・・・目をつぶってください……)

【信念の倫理・第一部】クリフォード著
トム・デマルコ『熊とワルツを』著より)

ある船主が移民船を航海させようとしていた。
船主は船が老朽化しているうえ、そもそもの作りがあまりよくないことを知っていた。船はいくつもの海を超え、嵐を乗り切ってきたが、何度か修理が必要になった。この船はもう航海に耐えないかもしれないと船主は思っていた。

船主の頭はそのことでいっぱいで、考えるたびに憂鬱になった。おそらく徹底的なオーバーホールか修繕に出すべきだろうが、莫大な費用がかかる。しかし、出航する前に、船主はこの憂鬱な気持ちを振り払った。
船はこれまで何度も無事に航海を終え、いくつもの嵐を乗り切ってきたのだから、今度の旅から帰ってこないと考えるのはくだらないことだと自分に言い聞かせた。神を信じよう、新天地を求めて祖国を離れていく不幸な家族たちを、神はきっとお守りくださる。
造船工たちの誠実さを疑う狭量なことはするまい。

こうして船主は、自分の船は十分に安全だし航海に耐えると、安心して真摯に確信するに至った。明るい気持ちで船を見送り、移民たちが新たな故郷となるべき見知らぬ土地で成功するようにと心から願った。

そして船は跡形もなく海に沈み、船主は保険金を手にした。

この船主についてどう考えるべきか。

人々の死についてこの男に罪があることは間違いない。
たしかに、船主は自分の船の安全性を誠意をもって信じていた。
しかし、そのような誠意はなんら罪を軽くするものではない。
船主には、【目の前にある証拠を信じる権利】がなかったからだ。その確信は、忍耐強い調査によって確実に得られたものではなく、疑念を押し殺すことによって得られたものだ。最後には、そうとしか考えられないという確信に至ったとしても、わかっていながら意図的に自分にそう思い込ませたのだから、責任を問われなければならない。

話を少しだけ変えて、結局船は安全だったとしよう。
今回の航海も、その後のいくたびもの航海も、船は無事に終えることができた。それによって船主の罪は軽くなるだろうか。

そんなことはない。
ひとたび行動すれば、それは永久に正しいか間違っているかのどちらかだ。その善と悪がたまたま結果を生まなかったからといって、それが変わることはない。無実だったことにはならない、見つからなかっただけだ。
正しいか間違っているかは、信じたかどうかではなく、なぜ信じたかの問題である。何を信じたかではなく、どのように信じるに至ったかの問題である。結果として正しかったかどうかではなく、目の前にある証拠を信じる権利があったかどうかの問題である。

・・・
むかし、ある島の住民の一部が、原罪の教義も永劫の罰の強要もない宗教を信仰していた。

この宗教の信者が、不当な手段を使って自分たちの教義を子供たちに教えているという疑惑が広まった。その国の法律の解釈をねじ曲げ、子供たちを親権者や後見人のもとから引き離しているとされたのだ。さらには、子供たちをひそかに連れ去り、友人や親戚から隠しているとも言われた。
この問題に対する一般市民の関心を呼び起こそうと、数人が組織を結成した。
かれらは、特に地位や身分の高い住民をきびしく追及する告発状を公開し、あらゆる力を駆使して、信仰に励むこれらの住民を傷つけようとした。
騒ぎが大きくなり、事実を調査する委員会が任命された。

ところが委員会が得られる限りの証拠を入念に調査した結果、告発された住民は無実だったことがわかった。証拠が不十分なまま告発が行われただけでなく、活動家たちが公正な調査をしようと思えば容易に入手できたはずの無実の証拠があった。

この事実が発覚した後、国民は、この組織のメンバーの判断を信用できないことはもちろん、人間としても尊敬に値しないと考えるようになった。活動家は自分たちの告発を誠意を持って心から信じていたが、【目の前にある証拠を信じる権利】はなかったのだ。
その心からの確信は、忍耐強い調査によって誠実に得られたものではなく、偏見と感情から発せられた声を聞いて得たものだったからだ。

この話も少し変えて、ほかの部分は前と同じだが、さらに綿密に調査した結果、告発された住民は本当に罪があったことが分かったとしよう。
これによって告発の罪は変わるだろうか。

もちろん、そんなことはない。
信じたことが正しかったか間違っていたかではなく、誤った根拠にもとづいて信じたかどうかである。かれらは間違いなくこう言うだろう。
「そらみろ、結局われわれが正しかったんだ。次は我々の言うことを信用するだろうね」
信用はされるかもしれないが、それで尊敬に値する人間になるわけではない。
無実ではない、見つからなかっただけだ。
一人ひとりが自分の胸に手をあてて考えてみれば、自分は目の前にある証拠を信じる権利もないのに思い込みを深めていたのだと気づくはずである。そして、間違ったことをしたと気づくはずである。

しかし、いずれの例の場合も、間違っていたのは信じたことではなく、その後の行動だということもできるだろう。

船主は
「わたしの船はかならず安全だと信じているが、それでも多くの人びとの命を託す前に船を調べることは自分の義務だと思っている」
と言い得たはずだ。
そして、活動家に対しては、
「いかに自分の主張が正しく、信念が真実だと確信していようと、最大限の忍耐と注意をもって、平等な見地から証拠を調べるまでは、他人の人格を公然と攻撃するべきではなかった」
と言い得ただろう。

たしかに、ある程度はこのような考え方も正しいし、必要である。
なぜ正しいかというと、信念が固く、ほかに考えようがないとしても、そこから起こす行動にはやはり選択の余地があり、強く確信しているからといって調べる義務を逃れる理由にはならないからである。
なぜ必要かというと、自分の感情や思考を制御できない人は、明白な証拠だけを扱うという明快な原則にしたがうべきだからである。

しかし、このような考え方が必要であるにしても、それだけで十分とは言えず、先に述べたような審判をくだす必要もある。
信念とそれにもとづく行動を切り離せないのと同様に、一方をとがめてもう一方をとがめないわけにはいかないからだ。

問題に対する一方の見方を強く信じている人、あるいはもう一方の見方を信じたいと思っている人は、真剣に疑念を抱き、先入観を持たない人のように公平かつ完全に問題を調査することが出来ない。すなわち、公正な調査にもとづくことなく信念を持った人は、必要な調査を遂行するのに適した人物ではない。
また、信念がその人の行動になんら影響を及ぼさないとしたら、それは本当の信念とはいえない。自分を行動に駆り立てる何かを本当に信じている人は、その行動をとりたいと望んでいるのであり、心の中ですでに罪を犯しているのである。
信念がただちに表立った行動としてあらわれないとしても、それは将来の指針として心の中にしまい込まれる。それは人生のあらゆる場面で感覚と行動を結びつける諸々の信念のひとつとなる。それらの信念は複雑にからみ合って凝縮されているため、一部だけを切り離すことはできないが、新たな信念が加わるたびに全体の構造が変わる。どれほど些細で断片的なものにみえたとしても、まったく意味をもたない信念などない。
人はひとつ信念を持てば、さらに同じような信念を受け入れるようになる。以前からの信念を裏付けるものに出会うとさらに信念を深め、そうでないものに出会うと軽視する。こうして徐々に心の奥底にひそかに積み重ねていったものがいつか表立った行動として爆発し、その人の人格として永久に刻まれるかもしれない。

また、人の信念は、いかなる場合でも、その人だけにかかわる個人的な問題ではない。われわれの人生は、社会が社会たるために作りだした、物事に対する一般的な通念を拠り所としている。
われわれの言葉や文章も、思考の形態や過程や方法も、時代とともに形づくられ、完成されてきた共通の財産であり、世代が変わるたびに、さらに次の世代へ引き継ぐべき貴重な財産として、また神聖な宝として代々受け継いできた至宝である。それは不変というわけではなく、拡大と洗練を続け、人が適切に手を加えてきた痕跡がある。
その中には、良くも悪くも、ほかの人と対話をするあらゆる人間のあらゆる信念が織り込まれている。子孫が暮らす世界をわれわれの手で作るという大いなる特権、そして大いなる責任。

先の2つの例では、不十分な証拠にもとづき信じることも、疑念を押し殺し調査を避けることによって信念を深めることも間違いだと断じた。

このように審判をくだした理由は明白だ。いずれの例でも、ひとりの人間が信じたことが、ほかの人間にとって重要な意味を持つからである。

しかし、人の信念は、どれほど些細なものに見えても、その人が無名だったとしても、本当に無意味なことなどなく、人類の運命に何も影響を及ぼさないことなどないのだから、どのような信念についても同様の審判をくだすしかない。
われわれの意思による決定をうながし、人間のエネルギーをすべて凝縮して調和させる信念という神聖な財産は、その人だけのものではなく、人類すべてのものである。
信念は、長い経験とはてしない労苦によって立証された、大胆率直な追及にも耐えうる真実に対してもつべきものである。そのような信念は人と人を結びつけ、人類共通の行動を強め、方向を定めてくれる。
証拠もなく立証もされていないことを、自分への慰めや個人的な楽しみのために信じれば、信念は神聖なものではなくなる。それは人生のまっすぐな道を金ぴかに飾りたて、行く先にきらびやかな妄想を描くようなものである。あるいは、人類共通の悲しみを自己欺瞞でごまかすことによって、われわれを貶め、卑しめることでさえある。

正しい信念をもっていると賞賛されてしかるべき人は、いかなるときも、不適切な対象を信用して消えることのない汚点を残したりしないよう、徹底的に用心を重ねて純粋な信念を守ろうとする。

人類に対してこのような責任を負うのは、指導者や政治家や哲学者や詩人だけではない。

村の酒場でたどたどしく自分の考えを言葉にする田舎者が、人類の進歩を妨げるとんでもない迷信を打ち砕くかもしれないし、永らえさせるかもしれない。疲れきった職人の妻が子供に話して聞かせた信念が、社会をつむぎあげるかもしれないし、粉砕させるかもしれない。
素朴な人間であろうと、地位が低かろうと、信じるものをすべて追求するという万人の義務から逃れることは出来ない。

確かに、この義務は厳しいものであり、何かを疑うことは非常につらい場合もある。
自分は安全なところにいて力があると思っていたのに、無力でたよりないと気づかされる。何かについてすべてを知るということは、あらゆる状況下でその何かに対処する方法を知るということだ。何が起きようと、何をすればいいかはっきりわかっているつもりのときは、幸せで安心していられる、ところが、道に迷い、どちらへ行けばいいかわからなくなる。自分が何かについてすべてを知っていて、それに対して適切な行動をとることができると思っていたのに、実は自分が無知で無力で、それがどういうものなのか、どのように扱えばよいのかを1から学び直さなければならない(そもそも学ぶことが可能だとして)などとは気づきたくないものだ。
人が何かを信じたいと望み、疑うことを恐れるのは、知の感覚には力の感覚がともなうからだ。
この力の感覚は、そのおおもととなる信念が調査によって公正に得られた本当の信念であるときに最も高揚する。そのようなときには、それが人類共通の財産であり、自分だけでなくほかの人びとにも通ずるものだと正しく感じられるからである。
秘密を知ったおかげで自分が強く安全になったことが喜ばしいのではなく、人類が世界をさらに深く掌握したことが喜ばしいのである。

ところが、不十分な証拠をもとに何かを信じたとしたら、その喜びは不当に得たものである。本来もてないはずの力の感覚を与えて自分をだましただけでなく、人類の義務に反して不当に力の感覚を得るという罪を犯したことになる。その義務とは、やがてわれわれの体を支配し、町中に広がっていく不当な信念から自分の身を守ることである。甘い果実を得るために、そうと知りながら自分の家族や隣人に疫病をうつす危険を冒すものがいたら、どう思われるだろうか。
さらに、ほかの場合もそうだが、考えるべきことはこの危険だけではない。不適切な理由で何かを信じるたびに、われわれは自己統率力を弱め、疑問をもつ力を弱め、公正かつ公平に証拠を吟味する力を弱めている。われわれはみな、誤った信念と、そこから生まれる決定的に間違った行動を守り続けることによって大いに苦しむことになる。
そのような信念を抱いたときに生じる悪は途方もなく大きい。

しかし、軽々しく物事を信じる性質を持ち続け、不適切な理由によって信じることが当たり前のようになると、さらに大きな悪が生まれる。

わたしが誰かから金を盗んでも、単に所有者が変わっただけで何の害もないかもしれない。相手は金を失ったことに気づかないかもしれないし、相手が悪いことに金を使うのを妨げるかもしれない。しかし、これは自分を不誠実な人間にするという意味で、人類に対する間違った行為であることを免れない。社会が傷つくのは財産を失うからではなく、盗人の巣窟となるからであり、そうなれば社会は社会でなくなる。
だからこそ、善を生むためには悪を行うべきではない。

このような大きな悪が生まれるのは、われわれが悪を行い、それによってよこしまな人間になるからである。

同様に、不十分な証拠をもとに何かを信じたとしても、それだけではさしたる害にはならないかもしれない。それはほんとうに真実かもしれないし、真偽があきらかになる機会はこないかもしれない。
しかし、軽々しく物事を信じたことで、人類に対して重大な間違いを犯したことは免れない。

社会にとって危険なのは、間違ったことを信じることだけではない。
それだけでも重大な危険だが、さらに社会が軽々しく物事を信じるようになり、詳しく検証し、調査する習慣を失う危険がある。そうなれば野蛮な社会へと逆戻りせざるをえない。
人が軽々しく物事を信じることによる害は、他人にも軽々しく信じる性質を広め、結果として誤った信念をもたせることだけではない。

自分の信念について常に注意を払っていれば、他人が自分に話して聞かせる物事の真偽についても、常に相手に注意を求めるようになるはずである。
誰もが自分の心と相手の心の誠実さを尊重すれば、人は互いに真実を話す。

しかし、わたし自身が真実に無頓着だったら、そして自分が信じたいから、その方が安心できて楽しいからという理由で物事を信じる人間だったら、友人たちがわたしの心の誠実さを尊重するはずがあるだろうか。彼らはわたしに向かって心にもない「ごきげんよう」を言うようにならないだろうか。そのうちに周囲は虚偽と欺瞞の空気に包まれ、その中で生きていかねばならない。甘い幻想といとおしい嘘でできた空中楼閣の中では、それもたいしたことではないかもしれない。しかし人類にとってはわたしが隣人を嘘つきにしたことは重要である。軽々しく物事を信じる人は、嘘つきや詐欺師の始まりである。人は家族に囲まれて暮らしており、家族と同じような人間になったとしても何の不思議もない。人間の諸々の義務は深くからみ合っているため、法をすべて守るべき人が一点でも過ちを犯せば、すべてが罪となる。
結論をいうと、不十分な証拠をもとに何かを信じることは、いつでもどこでも誰にとっても間違いである。

子供のころに教わったことやその後に説かれたことを信じている人が、それについて心の中にわき上がる疑念を払拭し続け、それについて疑問を呈したり論じたりする本を読むことや人びとの輪に加わることを意図的に避け、それを揺るがしかねないような質問を不信心だとみなした場合、その人の人生は人類に対する長いひとつの罪となる。

幼少のころから疑うことを恐れるように育てられ、信じるものによって永遠の幸福がもたらされるのだと教えられてきた分別の足りない素朴な人間にもこの審判を適用するのは厳しすぎる、と思われるとしたら、真剣に問うべきである。
誰がイスラエルに罪を犯させたのかと。

この審判を裏づけるため、ミルトンの言葉を引用させていただきたい。

 人間は真実について異端者となりうる。
 牧師がそう言ったから、
 あるいは集会でそう決まったからというだけで、
 ほかの理由も知らずに物事を信じた場合、
 その信心が真実であっても、
 その真実こそがその人の異端のしるしとなる。


また、コールリッジによる有名な格言もある。

 最初に真実よりキリスト教を愛する人は、
 キリスト教より自分の宗派や教会を愛するようになり、
 最後には何よりも自分を愛するようになる。


教義の証拠は、一度調査したら永久に確定するというものではない。
疑問を押し殺すことは正しくない。その疑問は、すでに行われた調査によって誠実に答えられるものか、さもなければ調査が完全ではなかったことがわかるかのどちらかである。

誰かがこう言うとする。
「しかし、わたしは忙しいのだ、特定の問題について適切な判断をくだすために必要な調査を延々と行う時間はないし、そもそも何を言っているか理解できない」

それならば、その人には何かを信じる時間もないはずだ。


(2007/06/08)

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